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続・会いにいく
2005年06月22日 (水) 23:14 * 編集
観光とわたしの様子見を兼ねて母親が京都にやってきた。
あじさいが見たかったので三室戸寺に、あとはなりゆきで平等院に。三室戸寺のあじさいはみごとだった。青・紫・ピンクのあじさいが境内じゅうに咲いていて感動だった。梅雨生まれだからか知らないけど、あじさいの花は大好きだ。数年ぶりにかたつむりも見た。花はいいよね。心があらわれる。

それから平等院の表参道であやしげなおみやげものやさんに入ったら、やけに話し好きな(でもなんか見た目病んでる)おばさんと3人で色々話し込んだ。だいたいはおばさんが娘の子育てに悩んでるから、うちの母親が歳の近いこどもを3人も育ていることをすごいすごいという話からはじまった。私は娘の立場でおばさんと母親の会話をきいていたのだけど、まさに親の心子しらず・子の心親しらずというか・・・。お互いのことを思いあってることには(中には愛情以外の感情を持っている家族もいるだろう)ちがいないのになかなかわかりあえないから苦労する。それは年齢の差・経験の差だけにはとどまらないように思う。たとえば母娘なら同性としての感情、健康に育ってくれればいいという建前と、ふとしたときにでてしまう「できればデキル子に育ってほしい」という矛盾。わたしは親になったことがないからわからないし、二人の会話をぼんやり聞きながらの想像だけど、親と子の間には愛情だけでははかれないもっともっと複雑なにかが存在しているんだろうなあと思った。

小さい頃は親が絶対的な存在で、逆らうことは許されないとおもっていた。それでも、だんだんと高校卒業から家を出るくらいになって、ほんとうは決して親は完璧な存在ではないということに気づいた。完璧だと思っていた親も、疲れて八つ当たりすることもあるし弱気になって泣くこともあるし子供への接し方は決して毎日一定ではない。そのことに気づいたから親に失望したのではない。わたしはそのことに気づいたからこそ、親をいっそう信頼するようになったし、人間的に信用できるようになった。
こどものことをずっとそばに置いておきたい、こどものことはなんでも把握できなければならないという親もたしかにいるが、それは子離れできていない言い訳なんじゃないの?と思う。わたしは親になったこともないしたくさんの親を見てきたわけじゃないからうまく言えないけれど、こどものことをすべてしっておきたいのと、純粋にこどもの心配をするのとは全然違うんじゃないかなーと思う。
こどもが親のこと信用するのが当然なように、親もこどものことを信用する努力をしてほしい。
たしかに今わたしは親の経済力やその他もろもろによって生かされている。でも、今を生きているのは親ではなくわたしなのだ。
どっちに転んでも責任を親に押し付けることをしてもいい年齢はもうさすがに過ぎてるんじゃないかなあ。

こどもの戯言ですかね。
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